2006年のデビュー以来、歌手・作詞作曲家・役者として幅広く活動を続けてきた中村 中。デビュー10周年を迎えた2016年は、舞台『ライ王のテラス』、中島みゆき主催『夜会vol.19「橋の下のアルカディア」』に出演し、ロック・バンドDECAYSに参加し、10年間の感謝の意も込めた全国4公演のツアー『TOUR2016十の指』を展開するなど、慌ただしく過ぎていった。

そして2017年の幕開けは『中島みゆきリスペクトライブ2017歌縁』で全国を巡り、3月には脚本家江頭美智留率いる劇団クロックガールズ第14回公演『悪女たちのララバイ』へ客演。その直後にはデビュー来の音楽仲間でもある石田 匠をゲストに迎え全国5ヶ所をふたりで旅する『TOUR2017十の指ふたたび』を予定している。
『TOUR2016十の指』と『TOUR2017十の指ふたたび』で計9公演。
これを経ていよいよ2017年5月20日(土) 東京国際フォーラム・ホールCにて、アニバーサリーを締めくくる10本目の切り札となる公演が開催される。

ミュージシャン、プロデューサー、俳優、作家、漫画家など、多岐に渡る方々よりお祝いコメント、中村への期待などが寄せられました。各週続々とアップされていくので要チェック!
さらにデビューからの全キャリアを語る『中村 中 10thアニバーサリー・インタヴュー ~歌でなければ伝えられないこと~』も。
これまで中村が折々に直面してきた課題について赤裸々に明かしながら、『天晴れ!我は天の邪鬼なり』というタイトルに込めた真意を紐解いていきます!

お世話になったたくさんの方々からお祝いコメント、中村への期待などが寄せられました!

高橋一生
高橋一生

天の邪鬼って別名「天探女」って云うんだぜ。ピッタリね。
まさに色々「中」心に来ちゃった感じですね、中ちゃん。
それも、ど真ん「中」。
大好きよ中ちゃん。もっと中ちゃんの「音の真ん中」へ。
10周年っていうか、生まれてきてくれて良かったです。
それも含めて、おめでとうございます。
恐惶謹言。

研ナオコ
研ナオコ

中ちゃんデビュー10周年おめでとうございます。
中ちゃんの事はデビューしてからずっと気になっていて、いつか会いたいなーと思っていました。一昨年、私の45周年記念CDを作る時に楽曲を依頼して、頂いた「壁の向こう」をきっかけにやっとお会いすることが出来ました。
それから3年ぐらいの短いお付き合いですが、今年は「歌縁」で、ずっと一緒にツアーを廻って、一緒に過ごして、良〜く中ちゃんの人柄が分かりました。
たまたまリハーサルの時、予定にない曲を歌っていたら、後ろから誰かがハモってきてそれが中ちゃんで・・私の歌を良く知ってるなぁーと。
小さい時から私の曲を聴いてくれてたみたいで。
『中村 中』は繊細さの中に大胆さがある独特な感性と、不思議な魅力のある貴重な存在です。
これからも肩の力を抜いて、自然体でずっと歌い続けて欲しいですね。

瀬尾一三
瀬尾一三

10周年 おめでとうございます。

実を言うと貴女のデビューの頃から発表した作品や存在が心に引っかかっていて、いつかご一緒出来たらと思っていました。
機は熟したようにこの3年で今までの時間を埋めるがのごとく密度高く仕事ができて嬉しい限りです。

これからも色々な事に果敢に挑戦してイッパイ色々な経験をすることでしょう。
その過程で心に「負のエネルギー」が蓄積することもあるでしょう。
が、貴女にはそれをも「正のエネルギー」に変える力が備わっていると思います。

いつも笑顔でパワフル過ぎる貴女が魅力です。

人生は「Show must go on!」

そして、もしいつかオジサンにプロデュースさせてくれる機会があれば
「最高に優雅で豪華、気品と品性に満ちたビッチ!なファムファタール」を音楽で作り上げたいな。
しかしこちらは今年、齢70歳のジイサンなのでボケない様にしなければね!

山崎ハコ
山崎ハコ

中 様。10周年おめでとうございます!
怒濤の10年だった事でしょう。オメデトウ、おめでとう。

出てきた言葉は「裸一貫!」
なぜか その言葉しか浮かびません。いろんな事を経験して、これからを思った時に出てきた言葉です。「裸一貫」

プロデューサーなら、中村 中しかやれない映画を作りたい。海外の映画祭に出したい。タイトル「ATARU」

竹原ピストル
竹原ピストル

久しぶりのあたるちゃんからのお便りが、“デビュー10周年”にまつわるもので、とても喜ばしく思いつつ、これを書いています。

ぼくとあたるちゃんの仲ですから、申し合わせて、例えば、酒でも飲みつつ、最近はどうしてた?とか、それこそ、祝デビュー10周年!今の気持ちは?とか、語り合う時間を設けるのは容易いことなのかもしれません。
けれど、やっぱり歌うたい同士ですから、いつの日かまた共演の機会を掴み取って、俺は最近こんな歌を書いたー!!うおー、あたるちゃん、そんな歌を書いたかー!!と観せ合うのが何よりも洗いざらいな、良い意味で身も蓋もない最高の再会、近況報告なんだろうな、と、勝手ながら、そう思っています。
その日に辿り着けるよう、精進していこうと思います。

あたるちゃん、デビュー10周年、本当におめでとう!

あなたのピーちゃんより!

七尾旅人
七尾旅人

あたるちゃん、おめでとう。
「友達の詩」から10年経つんですね。とても偉大な歩みだと思います。
あたるちゃんの声は本当に特別で、CDやライブでの歌声はもちろんなのだけど、もっと僕が驚いたのは、ごく普通に会話している時や、一緒にちょっとした鼻歌を歌ってる時、そして演劇の舞台で役に没頭している時など。
脳が痺れるような美しい声。
女性にも、男性にも、他の誰にも出せない特別な周波数帯の響きに、うっとりしたものです。

「もし自分がプロデューサーだったら中村 中にさせたいこと?」
とても難しい質問だけど、やっぱりその摩訶不思議な響きを、もっともっと引っ張り出してみたいと思うでしょうね。
中村 中が表舞台で歌い続けていることは、ひとつの奇跡だと思います。
これからもたくさん聴かせてください。
ではまたね。

林久悦
林久悦

初めて中ちゃんを見たのは、10年前とあるイベントで一緒になった時。
歌詞のインパクト、デビュー前の新人とは思えぬ歌唱力と立ち振る舞い、今でも鮮明に覚えてます。
凄いのはこの10年、常に中ちゃんのライブで毎回その感覚を感じるという事。
頭の先からつま先まで中村 中を表現しきる姿はいつ見ても刺激的!
まずは通過点の10周年おめでとうございます!
20年、30年後も期待してます!

中ちゃんが作った童謡を聞いてみたいです。
後はアイドルのプロデュース(笑)

吉村クミ(オフィシャルサイト「中屋」制作・運営)
吉村クミ(オフィシャルサイト「中屋」制作・運営)

中さん10周年おめでとうございます!
なんやかんやでお付き合いも、6年..いや7年ぐらいになりますでしょうか?
Liveを拝見した際の、中さんの歌声はもちろん、中毒者の皆さまたちの残業コールに至るまでのLiveの一体感に毎回衝撃を受けております。
以前にも増して活動の幅をメキメキと広げているので、
毎度サイトを更新するたびに「次は何にチャレンジするのかしら?」とワクワクしております。
15年20年とその先も、まっすぐに、そして四方八方にご活躍されることをを切に願います。

また、例のイタリアンにご一緒いたしましょう。

世界ワールドツアーとか如何でしょう?

平原綾香
平原綾香

初めて遊んだとき、一緒に
ゲームセンターに行ったこと覚えてる?

中村 中と平原綾香がゲームセンター。
今考えたら、ちょっと、面白いけれど

音楽仲間だからとか、関係なく
あのとき、“友達”として遊べたのが
私はとっても嬉しかったのよ。

太鼓のゲーム、シューティングゲーム
何をやっても上手だよなぁ、あたるは。

音楽だってそう。
何をやっても、上手なのです。

ステージの上では、誰よりも表現者。
裏では、いつも周りに気を遣って
みんなに愛を配っている。

そうゆう あたるが、私は
音楽家としても、ひとりの人間としても
大好きです。

そして、いつも私のことを
“あーや”って呼んでくれるときの
優しい声が、大好きです。

以前、低い声のコーラスを一緒にしたとき
あたるの声、とってもカッコよかったんだよ。

あたるが自分で
“NGボイス”って言っていたけど
それ、もったいないから出しちゃいなよ!

その音域の広さ
もっともっと使ってほしい!

根本要
根本要

言葉でハッとする。ボクはアタルの曲を聴くたびに思う。
心のヒダに引っかかっている思いを、びっくりするような言葉で表してくれる。しかも決してあざとくない言葉で。
ボクはよくアタルに「お前はシンガーではなく、アーティストだ」って言う。
確実に、僕らのレベルではない特別な表現力を彼女はもっている。
でも、改めてアタルのことを書こうとすると、何故だろう、もう10年のつきあいになるのに、うまい言葉がひとつも見つからないのだ。
アタルの歌は、その生き方を否定も肯定もしない。
現実を生きていく切なさや優しさ、弱さや強さが並列に並んでいて、その言葉が僕らに生きてる意味を投げかけてくる。
ボクのアタル体験は「裸電球」から始まった。「家出少女」でとどめを刺された。
そして今も中村 中というアーティストから刺激をもらっている。

佐藤竹善
佐藤竹善

もう10年なの!?
AMラジオで偶然スペシャル印象的だった中ちゃんの声とトークを聴いて以来、いつも気になる存在のアータ。
中ちゃんの洞察力は、ぼくの想像を絶するものなんだろけど、いつも尊敬しています。
友達のような仕事仲間ような、とっても親しい存在のような、手の届かぬ神々しい存在のような、そんな不思議な感覚を持つ唯一無二のキャラクターが大好きです。
でも面と向かうとやっぱり、年下の可愛い近所の妹のよな。田舎育ちのぼくには、実はそこが一番心地よい。
どうぞそのままで、ますます才能が開花していくのを嬉しく見ています。

片桐 仁
片桐 仁

中村 中ちゃんとは、『ベターハーフ』という舞台で共演しました。その舞台での中ちゃんの役が、
“トランスジェンダーの歌手”という、中ちゃんにしか出来ない役でした。
でも逆に、その”身につまされる他人”の役は相当難しかったと思います。
しかも、役で感情を揺さぶられながら、ピアノを弾いて熱唱するって、『一人何役こなすんだ!?』という”難役”を、
本当に楽しそうに演じていたのを見て、素敵だなぁと、毎日思っていました。
どうやったらこんな風に出来るんだろう?と思ってコンサートを観に行ったら、中ちゃんが歌うと、お客さん一人一人に想いが届くから、
感動するんだ!と気づきました。
家も近所なので、一緒に飲みに行ったりすると、地元の飲み仲間が沢山いるし、
“姉御肌に見えて急に女子”な感じも、これまた人柄だなぁ、素敵だなぁと思ってしまいます。

中ちゃん、10周年おめでとう!!

江頭美智留
江頭美智留

中さま。あなたを初めて知ったのは、デビュー直後に出演された単発ドラマでした。主役ではないのに強烈な印象と圧倒的な存在感を放つ女優に「この人、誰!?」と釘付けに。
以来、あなたの芝居と歌に魅了され続けて十年。今回、一緒に舞台を創るという奇跡が起こり、毎日、あなたの凄さを目の当たりにしています。
女優・中村 中は、思っていたよりはるかに本物でした。
作品作りに対する真摯で情熱溢れる姿に、ますます惚れました。
これからも、ずっと、あなたの芝居と歌に魅了され続けるに違いない私は、幸せです。

プロデュースなんて無理ですが、中村 中が【中村 中を歌う】というような舞台を死ぬ前に創れたら思い残すことなく、逝けそうです。

中村キヨ(中村珍)
中村キヨ(中村珍)

もう、どーしようもなく、どこかしらの世代の、どこかしらに生きなきゃいけないとして、じゃあ、どーせどこに生まれ落ちても生き難いから、だったら「私の生きる時代が中村 中の時代でよかった」と、思うのです。一人で働く元気の出ない深夜の仕事場で。イヤホンから聴こえる音楽しか寄る辺のない落ち込んで歩く散歩道で。何かから逃げたくて閉じこもって走らせた車のステレオからあなたの歌が聞こえる深夜の国道で。
同い年の私は、《本人・中村 中》としてのあなたの誕生と、《歌手・中村 中》としてのあなたの起立、そして《◯◯(※なんでもいい。あなたのしたいことすべて)・中村 中》としてあなたが何度でも、いつものあの、空と地面を真っ直ぐ繋ぐみたいな伸びた背筋をして現れることを、喜び、安心し、戦慄し、圧倒されながら支えにして暮らしていこうと思うのです。
いつも本当にありがとう。私はあなたの歌をとっても頼りにしています。

歌と一緒に、歌と伴走できるような『物語』も書いてよ!って思っています。MVみたいに、MM(マンガ)やMN(ノベル)がついてる歌もいいでしょ、って。中さんが心の中で見てる情景や物語を私も見てみたいってだけなんですけどね(笑)

東 學
東 學(アートディレクター・絵師)

出会って8年くらい時が流れたか!
この流れに7年前に飛び込んで『少年少女』のジャケットデザインしたのが懐かしい。
一緒に仕事できて興奮しっぱなしやん。
いっぱい幸せをおおきに。
これからも幸せをちょうだいね。

ともあれ、あーちゃん!
10周年おめでとうさん!!
今までもこれからもいいオンナやで!

渞 忠之
渞 忠之(写真家・光画師)

10周年おめでとうございます。

デザイナーの東學さんに連れられて初めて貴女の生の歌声を聴いたのは2010年。
歌の語源が「訴える」から来ている説を目の当たりにし、その衝撃で単なるファンに身を落とした瞬間。

初めての撮影は2011年「5歳になりました」のライブ。それから2017年の現在までは
立派な追っかけカメラマン。

「中村 中を撮るという行為」は、常に僕の映像を新しい境地に連れて行ってくれます。
裏を返せば、常に変化と成長を繰り返す彼女を「素直に」記録していけば、勝手に美しい説得力のある絵が撮れると
いうこと。(まあ、反発しても絶対敵わないしw)
5年間一緒に撮影してきたCD、PVは僕の誇りであり、それらの映像が中村 中の魅力をできるだけ多くの人たちに届けられるものであったらとても嬉しい。

そして、10周年。
これから新たな追っかけステージに突入することを宣言。
そんなカメラマンを許してくれている中さんと瀬上さんにずっとずっと感謝です。

もう1度。

おめでとうございます。

何をさせたい?
とはおこがましいですが、世界中で歌う彼女のロードムービーを撮りたいです。
20周年まで。

クミコ
クミコ

中ちゃん、デビュー10周年おめでとうございます。
そうか、中ちゃんと知り合ってからまだ10年しか経っていないのだと感無量になりました。

出会った初めの頃、中ちゃんは自身を傷つけてしまいそうなくらいの鋭い眼差しで、それはそれでとても魅力的でした。
でも、今、その眼差しには温かい力が宿っています。
温かい心が宿っています。

先日までご一緒していた、中島みゆきリスペクトライブ「歌縁」。
私の歌にコーラスとして参加してくれた、その声にどれだけ励まされたかしれません。
同じ歌の光を見つめる、その心と声は、私の背中をいつも見守ってくれました。
一緒に今を生きている、そんな感動に胸が震えました。

中ちゃんは、こうしてこれからも、どんどん大きく成長していくのだなあと思います。
その道が、女優さんでも歌い手でも、その他のなんでも。
中ちゃんは、熱くて強い、そして温かい心で、それぞれの道を切り開いていくのだろうなあと思います。

きっとまた。ご一緒しましょう。

LOVE
LOVE

歌い手として、プレイヤーとして、表現者として、人として。偉大なあなたを心から尊敬しています。
一緒にいると、あなたに甘えたくなるような、同時にあなたに認めてもらいたくていつもより力が湧いて頑張れてしまうような。
人の弱さに優しくなれて、自分の強さに気づかせてくれる、そんなあなたの歌心。
10周年、心からおめでとう、そして歌っててくれてありがとう!
これまでもこれからも世に必要とされる歌い手、「中村 中」のど真ん中を貫く姿に私は憧れ続けます。

TOKIE
TOKIE

10周年おめでとうございます!セッションしていただいたり、ライブを見せていただいたり、どんなステージであろうと「中村 中」を演じきっている様にいつも驚かされています。11年目からのいつかまたご一緒できるのを楽しみにしています。

中ちゃんがまだやっていない事はあるのかしらとちょっと考えてしまいました。うーん、リーダーバンドでしょうか・・・。女子バンドとか。

真壁陽平
真壁陽平

10周年おめでとうございます。デビュー当時、もちろん知り合う全然前、この人の名前…なんて読むんだろ?と思ったのを覚えてます。あれから数年後、自分が一緒に演奏したり飲んだりする関係になるとは想像もせず…。実際には中ちゃんの10年間のうち3年くらいの関わりでしかありませんが、レコーディング、ライブ、ツアーの車移動、お酒…3年とは思えない濃密な時間を過ごさせてくれてありがとうございます。ここから次の10年はどうなっていくのか…さっぱり予想がつかない大胆な事をたくさんやってくれる事は間違いと思っているし、ますます尖った存在になっていって欲しいと、勝手に思ってます笑 これからもよろしく。

自分の脚本、自分出演、自分の劇伴、で映画か舞台作ってほしい。絶対大変だけど笑

大坂孝之介
大坂孝之介

中さん、デビュー10周年、おめでとうございます!
アーティストが製造業と、同じモノづくりでも違うのは、「現状維持」がないということだと思います。
10年間、現状維持ではなく「継続」するということの裏に、
どれだけの「細やか」な努力や葛藤があったのか、僕には計り知れません。

私もひとりの演奏家として、ひとりの友人として、活動の一助になれたことを尊く思います。
これからも遠いところと近いところで、応援しています。

これまでどおり。
この回答ズルいですかね…
というのも、やらせたい、という考えが浮かばないんです。
だって中さんが自発的にやりたいと思いついたものじゃないと、つまらないものになりそうなので。

僕が思う中村 中さんの魅力は、
その歳の、その時節に、ありのままに感じたものを、声に変えて吐きだしてくれることだと思います。
時の移ろいと共に、自身も歳を重ね感じることも変わり、周りの環境、時事問題や流行も変わっていく。
自分の中で、固持するところと、変化を厭わないところを分別して、
流行を表現するのではなく、流行を感じながら、でも自分はこうだと表現する。
表現したいものが決まったら、サウンドなんかは、そのあとからついてくる。

それはおそらく、今まで中さんがやってきたことなんじゃないか、、、てなりました。

全然評論家ぶるつもりとかないのですが…
時代はここのところ、「本物志向」に潮流が向いてきてる気がするんです。「大衆」として音楽を押し付けられるのではなくて、個人が個人のための音楽をそれぞれ探し求めるような…
中さんは、実力派の本物のアーティストだと思います。
これからもどうか、普遍的で嘘のない、中さんにしか発信できないメッセージと音楽を、流されず一途に送り続けてください。演奏家として、友人として、心から応援しています。

平里修一
平里修一

デビュー10周年おめでとうございます!去年のツアー10フィンガー、そして今回の国際フォーラムと参加できてとても嬉しいです。きっとこれからも15周年、20周年と続けて行かれると思いますが、15フィンガー、、とか指増えたりはしないよね?(笑)これからも新しく進化して進み続けて行く中様を楽しみにしております。

もうこれ以上ないくらいいろんなことやっているので、、難しい、、願望としては、一緒にコミックバンドやりたい。。

泉谷しげる
泉谷しげる

10周年なンだね~おめでとう!
中ちゃんとは東北の音楽イベントで初めて逢ったけねぇ~!
ステージ見て格好いいオンナと思ったもンで~オイラは打ち上げ的な食事会で口説くわキスわ迫るわ部屋に来いと言い出すはで本当にサイテーな野郎だったね!
(笑)
しかし、あとで元は「男」だったと知り…びっくりしたけど中ちゃんに対する気持ちは変わらず~エッチしてもいいと思ったぜ(笑)。
魅力的だよな~素晴らしき中ちゃんに乾杯!

プロデューサーならどうするかだと?
以前もしたようにオイラは中ちゃんの「自由」を奪いたいのさ!アタルは天才だからね~天才に好きにさせると必ずしもイイもの創ってくれないと思ってるからね!アタルを縛りつけて~そこからもがいて醸し出すものの凄さを見たいからね! 音楽以上に天才以上にアタルの表現が大好きだからさ!
先のことなどかんがえるな

仲井戸 CHABO 麗市
仲井戸”CHABO”麗市

初対面は、寺岡呼人主催2010年の「Golden Circle Vol.15」at 武道館。エレキギターかき鳴らす姿の彼女を見た。エレキが似合う女の子なんて久しぶりに見た。ちょっといいなと思った。それまで知らなかった「中村 中」という存在に初めて触れた……。唄を聞いて、なかなかいいなと思った……。時を経て、小さなLive Houseで「サシ」で共演した。その唄声、作品、アチチュード、そしてフィーリングに改めて触れた……とてもいいなと思った……。中村 中という「光と影」。そして「何か」に触れた…。自分の、俺の「何か」ってやつと比べた……想像した……考えた……「何か」ってなんだ?……。

祝!10周年、「中村 中」という才能と魅力、ますますぶちかましてくれーい!
Yeah! Love & Peace & Patience
元気でな…… エレキ弾いてる?

その日は寒くも暑くもない、何気なく静かな心地良いってな日で、陽射しもすこぶるやわらかで…… その日は何にも予定や、しなければならない事なんてのも無くて……なんだか気分も身体もゆるやかに軽やかで……「そうだ!ちょっと近所の、あるいはどこかずーっと遠くの公園にでも散歩に行こう…。」……なーんてフィーリングの唄をいつか俺に聞かせてくれよ…… 「中村 中」タッチでのそんな唄を……。

P.S.
聞きそびれてた、君はどの季節が一番好きなの?……。

aCKy(from Only Love Hurts)
aCKy(from Only Love Hurts)

俺は面倒事を抱える。
面倒事を抱えるのが俺の性だ。俺は昔から、「そいつ」を大層憎んでいるが、面倒事の方はそんなこととは露知らず、いつもひっそりと俺にまとわりついてくる。
そうして、俺は「そいつ」をせっせとため込み、いつか真っ黒な血にして、撒き散らす・・・

数年前の面倒事。

雨の朝の風俗街で、こいつとは絶対関わりあっちゃいけないってオーラを数十メートル先から放っているオンナが、通りがかりに、ふらつきながら、乱れた髪の向こうに見える真っ赤な唇から洩れる小さな声で、ただし、思いがけずはっきりとした口調で、俺に火を貸せと声をかけてきやがった。

そして、その一瞬から、確か、わずか14日間の間、その面倒事は、そうだな・・ メープルシロップや、コットンキャンディーや、カップケーキの類の甘ったるさを、俺の隙間にめいっぱい埋め込むと同時に、俺の胸をぎざぎざにえぐり、しとど八つ裂きにして、唾を吐きかけ、消えていった。

そんな14日間の間のいつの日だったか・・

俺は、おおよそ人が暮らせるような部屋では無い散らかり方の、数多の薬の包装紙や、安っぽいコスメの屑や、丸められた公共料金の請求書などが散乱するそのオンナの部屋のベッドに居た。

朝方、うつ伏せで死んだように寝ているオンナを起こさぬように体を入れ替え、煙草に火をつけようとライターを探したそのテーブルの、灰皿からこぼれた吸殻や、口紅の着いたティッシュや、コンビニの袋の隙間の中に、ただ一枚、CDが有った。

「汚れた下着」と、書いてあった。

確かオノヨーコが、いや、もしかしたら、俺の夢だったのかもしれないが、「10年1つのことを頑張れば、神様はきっとご褒美をくれる。」というようなことを言っていたとか。

ご褒美もらえたら、俺にもお裾分けをください。

そりゃもう、俺が歌詞を書き、歌ってもらうことです。
ただし、それは、名曲でなければなりません。「川の流れのように」クラスなヤツ。

石田 匠
石田 匠

アタルちゃんと六本木ライブハウスの楽屋にて初めてお会いしてから十年が
経ったのですね、ちょうどその時の自分の年頃になるわけです。
自分と比べると今のアタルちゃんの方が随分大人な気がします。

それもそのはずです、絶えず現状に甘んじることなく
歌い手、演奏家としてだけではなく、
演技、朗読など多岐にわたる才能を発揮して
誰も歩んでない道を歩き続けているわけですから。

「本気」と書いて「マジ」と読む、
「中道」と書いて「アタルミチ」と読めるでしょう。

これからも、どまんなかの中道を歩んでいってください!!

放送作家
サプライズ好きのアタルちゃんの企画力を生かして、面白い番組を作っていただきたいです。

リポーター
あと歯に衣着せぬコメント力を生かして、毒蝮さん、ヨネスケさんばりに毒舌リポーターとして突撃していただきたいです。

伊藤ハルトシ
伊藤ハルトシ

デビュー10周年、おめでとう!!
初めて知り合ってからは、およそ13年!?とても感慨深いものがあります!
本当に沢山の思い出があって、このスペースでは語り尽くせませんが。
僕の目には中ちゃんは、どんな時も自分の進む道を一つ一つ確かめながら、懸命に走り続けて来た10年のように思います。
この先10年、20年、さらに先の未来まで、中ちゃんらしい、輝かしい音楽人生になる事を心より願ってます!

いつか中ちゃんのプロデュースによるオーケストラコンサートが見たい!

林 由恭
林 由恭

まだ10年!? が第一印象。
それくらい中身の濃い活動をされています。
今なお第一線で活躍する歌声、変わらないピュアな気持ち、あの貫禄(笑)
いつも刺激をいただいています。

僕がバックバンドを一区切りする時にいただいたピンクの手紙は今も大事にとってますよ。30代に入った中ちゃんの楽曲を楽しみにしています。10周年おめでとうございます♪

中 学校(あたるがっこう)の教員。
(次世代に繋げる役目という事で)

宗本康兵
宗本康兵

10周年おめでとうございます。
周りを巻き込む吸引力が強く、音楽に対して本当に真っ直ぐな中ちゃんと出会えたことは、僕の今の音楽人生にも大きな影響を与えてくれたと思います。
ずっと尊敬してます。
大好きです。

中ちゃんのミュージカルです。
主演するミュージカルはもちろんですが、
中ちゃんが、その才能を全編に開花させた、
客観的に総合演出してる作品が観てみたいです。
絶対に素晴らしい作品になります。


阿木曜子
阿木曜子

私は中村 中さんの大ファンです。中さんは凄いです。
何が凄いかと言うと、彼女の描く世界のレンジの広さです。
「地獄のように美しく 極楽のように恐ろしい」は
私がライフワークにしている「フラメンコ曽根崎心中」の
キャッチフレーズですが、中さんの作品が紡ぎ出すのは、まさにこの風景。
それは私が追い求めている世界でもあります。
今度ご一緒に、地獄極楽巡りをいたしましょうね。

後藤ひろひと
後藤ひろひと

あーたんおめでとう!
私の仕事をいっぱい助けてもらいました!なのであーたんの事もいっぱい助けました!つまり貸し借りはゼロです!いつまでもこの関係が続けばとても幸せです!さて!ここからは何をして一緒に遊びましょうかね?

彼女の色々な音楽が聴きたいのでジャンルを定めたコンセプト・アルバムをプロデュースしてみたいです!まずはカントリー!そしてシャンソン!ジャズ!レゲエ!ディスコ!サルサ!果てはヨーデルやポルカぐらいまでたどり着きたいです!

根岸孝旨
根岸孝旨

デビュー10周年おめでとうございます。
誰にでもわかりやすいキャラとは言いがたい中ちゃんを、ずっと応援してくれているファン、スタッフの皆様、これからもよろしくお願いいたします。

これをやらせたいなんて、制約するようなことは言いたくありません。
これからもありとあらゆることに興味を持って、それに飛び込んで行って欲しいと思います。

笹路正徳
笹路正徳

僕は中村 中を愛しています。どんなに嫌われようと普遍の愛です。もちろん音楽的な話ですが。あんな人なかなか会えません。音楽家として驚異的なスペックです。音楽はもちろん感性や音感だけではできないわけで、自分の表現したい事を実現するにはスキルが必要になります。彼女はその両方持っている音楽家でまだデビュー10年しか経ってないのか!と驚きます。楽器の演奏をストイックにかなりの時間をかけて鍛錬したという話も聞いた事ないし(人知れず練習してるかもしれないけれど)、作曲だってスタイルが多岐に渡りますが、子供の頃にさまざまな音楽をむさぼり聴いた、というカンジでもない(僕の見立て違いかもしれないけれど)。また、作詞という作業は大変テクニックを要するものですが、ここでも彼女は驚愕の実力を発揮します!そもそも感性だって、経験を客観性なり主観性で咀嚼しない事には育たないんだろうし。

なんだこの人は!何処でどう色んな技術を身につけたんだろう?!50歳の人間ならともかく!! じゃあ中村 中ってアーティストは天才ってやつですか?でも天才なんて呼び方したらつまらなくなっちゃいますね。そんなよくいる天才な人達とは全然違いますから。

鈴木正人
鈴木正人

中さん、デビュー10周年おめでとうございます。お会いしてからはまだ日が浅いですが、一緒にアルバムを作らせていただいた時には中さんの集中力の凄さに感服することしきりでした。あの調子からするととても密度の濃い10年だったのではないかと想像します。これからも唯一無二の表現力で突き進んで行ってください。そして何かお手伝いできることがあれば、いつでも!

月並みですが、やっぱり中村 中 脚本、演出、作曲、主演、の音楽劇など、見てみたいです。
あとは、中さん自身がプロデューサーとしても才能あると思うので、そういう事もどんどんやっていけると良いのでは。

八代亜紀
八代亜紀

中ちゃん、デビュー10周年おめでとうございます。
私のブルースアルバム「哀歌-aiuta-」の時に、中ちゃんが作ってくれた「命のブルース」は、私にとって、とても大切な財産です。
これからも中ちゃんが作る、素敵な音楽を楽しみにしています。

歌手と役者として活躍している中ちゃんに、これからやってもらいたいことといえば、、、
歌あり、お芝居ありの、ミュ-ジカル風一人舞台コンサートをやってもらいたい!
私も過去に一人舞台コンサートを経験して、とても勉強になりました。
是非、チャレンジしてみてね♪

一青窈
一青窈

とっても若いと思ってたら
いつの間にか10年経ってたのね。

そもそも
出会ったころ、ぴちぴちだけれど
話してる内容が余りにも合うので
歳、偽ってんじゃないか
てか、40overなんじゃないのか
とうたぐったほど。

歌謡曲のマニアック物知り具合
なんでも楽器を弾きこなしてしまう器用さ
語りの巧さ
むー
そして、その妖艶さ。
怖いぜ

思いました

兎にも角にもおめでとう御座います。
きっと私よりうんと長生きして
いつの間にか芸歴55周年とかやってるような気がするのよ。
それぐらいぴかぴかの才能と、
どんな荒波にも負けない裏付けされた努力があるから
、ね。
おともだちになれて光栄です。

劇団中村屋

浜崎貴司
浜崎貴司

あたるちゃんおめでとう。でもまだ10年ですか。まだ序章ですね!

デビット・ボウイとかレディー・ガガのようにさらに変幻自在でいこう~。

佐藤タイジ(シアターブルック)
佐藤タイジ(シアターブルック)

そうなのか、中村 中はデビュー10周年なのか!オメデトウ!
中村 中の個性とクオリティは明らかに群をぬいている。
これからも更に個性と技術をみがいて他をグーンと引きはなして欲しい。
期待しているぞ!心を込めて音楽しよう!

高野哲
高野哲(nil,THE JUNEJULYAUGUST,インディーズ電力,ZIGZO,THE BLACK COMET CLUB BAND)

ROCKとかPOPSとか、歌。
って、老若男女の壁なんか打ち破る衝動、そして破壊力!
だと思うんですけど、中ちゃんは正しく、その申し子だよね。
色んな意味で。ま、そのまんまの意味で!
いつでも会うたびに、中ちゃんの衝動と破壊力に圧倒されつつも、
とてもとても楽しんでます。
今後もその美貌、妖艶さ、可愛らしさ、
そしてその傍若無人!っぷりに磨きをかけてください!

いつかさ、昭和の匂いがぷんぷんするデュエットソングでも作らない?
10周年!おめでとう!

寺岡呼人
寺岡呼人

10周年?
中ちゃんはもう、30年選手のような風格。
最初に中ちゃんを見た時の衝撃は未だに忘れられない。
僕のイベントで山崎ハコさんの「織江の唄」を歌った時の鳥肌。
あれまだ20代だったんだよね(笑)。
とにかく、彼女ほどを音楽を愛し、音楽に愛されたミュージシャンを僕は知りません。
10周年ってことは、20周年、30周年の時は一体どんなレベルまでいってるんだろう?
楽しみでしょうがない。
おめでとうございます。

スタジアムクラスのアーティストになること。
しかもアジアで。
真剣に!
そして、これからの日本人を救う名曲をつくる。

小田和正
小田和正

2009年の「クリスマスの約束」で初めて君に出会いました。あの年、大人数でメドレーをやってみようということでとにかく参加してくれるアーティストを探していた時、一青窈ちゃんが君を推薦してくれたのです。思えばメドレーはたいそう無謀な企画でその道のりのほとんどが難航しました。でもその始めから終わりまで変わることなく全員を引っ張りそして現場を明るく盛り上げてくれたのが君でした。ボクの言いたいことを察知してそれを見事に的確にみんなに伝えてくれました。何度も何度も。どれだけ助けられたでしょう。「うまく行かないかも知れない」「みんなホントはもう抜けたいんじゃないか」と揺れ動く気持ちを「さぁみんなやるわよ!」のひと言で吹き払ってくれました。あの時はうまく伝えられなかったけれどいつも感謝していました。ありがとう。今遠くにいて思い出すのはそんな君のことです。

さらに活躍されるよう心から祈ってます。10周年おめでとう。

大竹しのぶ
大竹しのぶ

中ちゃんはいつも叫んでいます。
心の底から。
そこがしびれるのです。
そしてそれは、年を追うごとに力強く、確かなものになってきています。
けれど普段の中ちゃんは、どこまでも可愛らしく、誰よりも女の子らしいんです。
可愛いけれど強い、私の理想です。
これからも本当のことを叫び続けて下さい。

鴻上尚史
鴻上尚史

デビュー10周年、おめでとうございます。中ちゃんとの出会いは、僕のワークショップでした。中ちゃん自身でメールで申し込まれて、いきなり飛び込むという勇気とエネルギー、そして溢れる好奇心に感動しました。それが、10年、中ちゃんが第一線で活躍を続ける理由なのだと思いました。これからも、ますますエネルギッシュに美しく妖艶に歌い、演じ、遊び続けて下さい。

やっぱり、代表的ミュージカルを一本、創ることですなあ。主演で歌で、作詞・作曲は、できる範囲で。(全曲じゃなくてもいいってことですね)。つまりは、女優とシンガーの合わさった作品を創ること。

浦沢直樹
浦沢直樹

中ちゃん、10周年おめでとうございます。
って、まだ10周年なんですか?僕と同期、いやヘタすると
先輩のような感じさえしますよ。
中島みゆきさんの「永遠の嘘をついてくれ」が好きだと僕が言うと
”ニューヨークは粉雪の中らしい…’’とすぐに空で歌い出した時、やるな~、いったいこの子はいくつなんだと感心したものです。
これからも、いったいいくつなんだ?20周年?30周年?何星人?タイムトラベラー?
もうそういったものから全部解き放たれた異次元を飛び回っちゃって下さい。中先輩!

吉田拓郎さんの「LIVE ’73」というアルバムが好きなのですが、
そのライブ盤、ほとんどが新曲なんです。
新曲をライブで一発録りする。中村 中の鬼気迫る瞬間を真空パックする。
どうですか?やるほうは、それはそれは大変でしょうけど、
聴いてみたい!

浦 清英
浦 清英

中さん、デビュー10周年おめでとうございます。
あの雨の日、あなたの強烈な才能と出会ってもう10年経つのですね。
あなたの強烈な才能ゆえ、このままの自分ではあなたとまともにお付き合いできないと感じ、自身の精進に勤しまざるを得なかったあの頃を思い出しています。
あなたに会えたお陰で僕もこの10年を音楽とともに過ごすことが出来ました。
改めて感謝の言葉しかありません。
本当に、どうもありがとうございます。

「もしあなたがプロデューサーなら・・・」という質問でありますが、中さんの明確なビジョンの中には外部のプロデューサーなど要らないのではないかというのが僕の見解であります。
もし僕に出来ることがあるとすれば、同じ時間、同じ空間で中さんの音楽に寄り添っていくことしかないと思っています。
そうして生まれた音楽の中に、この先の答えがあるというということを教えてくれたのは他でもない中さんなのですから。

これから先10年、20年と活躍されることを祈っています。
僕も精進を続けます。いつまた中さんとご一緒する日が来ても自分が恥ずかしくないように。

シングル「汚れた下着」でのデビューから10周年という節目を迎えた中村 中。ライヴでは昨年にピアノ・トリオで“TOUR2016十の指”を展開し、今年3月17日から“TOUR2017十の指ふたたび”をスタート。そして5月20日に東京国際フォーラム・ホールCで行われる“10TH ANNIVERSARY SHOW 天晴れ!我は天の邪鬼なり”で、アニバーサリーを締めくくることとなった。

そのタイミングに合わせて、今回は本人の言葉を手がかりとして、この10年間の軌跡を振り返りつつ、音楽と演劇の両輪を軸にした彼女の表現の特徴とその魅力に迫っていくことにしたい。

音楽と演劇という二つの表現回路

シングル「汚れた下着」

中村 中は21歳の誕生日である2006年6月28日にavex traxからシングル「汚れた下着」でメジャー・デビュー。その夏の8月には舞台“Radiogenic リーディング・スペクタクル 優雅な秘密”にディーバ役で出演し、以後、音楽と演劇を両輪とする精力的な活動を続けてきた。

現在もそれは変わらず、2017年3月2日から6日には劇団クロックガールズの第14回公演“悪女たちのララバイ”の舞台に立ち、17日からは“TOUR2017十の指ふたたび”に突入するというタイトなスケジュールになっている。

では彼女はこうした音楽と演劇を二つの軸とする活動形態に、どのような思いで取り組んできたのだろう?

志田

まず10周年という大きな節目に際して、今どんな感慨をお持ちですか?

中村

10年って区切りが良いとは思うけど、短いなとも思うんですよね。仲良くしてもらってる人たちに、長く活動している方が多いから。例えば研ナオコさんとか(中島)みゆきさんとかSTARDUST REVUEとか、とにかく長く活動されている方を見ていると、「自分なんてまだまだひよっこだな」と思うし。どれぐらい歌い続けるのかということも、そんなに考えないでやってきたと思います。

ただ他に何もできることがないので、やり続けるイメージしかなかったんですよね。

志田

デビューした年からミュージシャンと女優としての活動をずっと並行していますが、音楽と演劇の両輪を軸にした形態は、最初からイメージしていたのですか?

中村

最初は全然なかったです。

志田

えっ、そうなんですか? ではどういうきっかけで両方やっていこうと思うようになったんですか?

中村

最初に違和感のことから話しても良いですか?

私は2006年に歌手でデビューする前からライヴハウスやストリートで歌っていて、歌うことしか考えてなかった。歌こそ自分の思っていることとか、人と同じにできないことを言っても大丈夫な守られてる場だと思ってたんです。

だから歌っていくことしか考えてなかったのに、まずデビューして人前で歌う場所が、ライヴより先に“優雅な秘密”っていう芝居の舞台だったんです。舞台では歌を歌うだけだったんですけど、その時書いていたけっこう自分の気持ちが濃かった歌、もう別に人に聴かれるってこととかも意識してなくて自分のために書いたような歌を、「このお芝居の解釈に歌って欲しい」と言われて。歌詞が変わるわけじゃなかったんですけど、なんか良い気がしなくて。

志田

それは演劇のスタッフが、中さんのクリエイティヴな回路をある種理解し共感したうえで、そういうことになったのではなかったのですか?

中村

当時はそうは受け止められなかったんです。なんだろうな、凄い自分も中途半端だったんですね。演出家の人と話したかといえば話してないし、かといって納得いかないから、この仕事を引き受けて良いのかなみたいなことも、デビューしたばかりでそんな言える感じじゃなかった。そこでなんか違和感あるなと。

そうした違和感は音楽のステージでもありました。デビュー当時なんか、「歌いたい」って気持ちしかなかったから、MCも何もできなかったし、もうとにかく作ってるところがなかったと思うんです。作為的なことなんて何もない“自分むき出し”みたいなライヴ。

それなのに「なんかシアトリカルだったね」とか。「よっ、役者!」みたいなことを言われて、それが凄い嫌だったんです。

志田

それって言っている方は賞賛していたのかも知れませんよ。でも、中さんとしては表現に向ける気持ちを、周囲に理解してもらっているように感じられなかったわけですね。

中村

そもそも演技が上手いわけでもないから、歌う役とか雰囲気が似合うオファーが来てたので、志半ばでもなんとなく形になっていたというか。むしろ演出家の力によって引き出されてた感じがします。中には楽しくできるものとかもあったんですけどね。

でも演技をやってみると、今度は演技してるのに「アーティストだね」とか言われたりしてたんですね。

なんで私はそんな逆のことを言われるのかよく分からないんですけど、みたいな。ほんとに変に悔しくて、「うまくいかないな」とずっと思ってて。ライヴでは、こんな100%出しているのに「女優だね」って言われて傷ついたりして。

だから最初の5年ぐらいは、「この違和感はなんだろう?」って思ってて、これで良いのかどうか分からないままやっていました。

それに歌手でデビューして役者もやるようになったら、「自分で歌を書く人が、何か別の目的に役作りをしてとか、別の人のものをやることは、できないんだよ」とか、「そういうことはしちゃダメなんだよ」みたいなことを言ってくる人もいたんですね。「だって変じゃない。自分の思いを書くのと、別の人の思いをやるっていうのは、本当は両方はできないはずじゃない?」って。

もちろん何か感想を言ってもらえるっていうのは、もうそれだけでもありがたいことだし、見てもらっているのもありがたいことだとは思うんですよ。だけど基本悩んじゃう性格だから、そう思っちゃったんです。

だから「せっかくいろいろ声をかけてもらってたりするのに、なんか煮え切らないなあ」とか思って、どっちにしても吐き出すしかないしって、考えないようにしてやり続けてたんです。

志田

そうした違和感を克服したのはいつ頃のことですか?

中村

“エドワード二世”をやった時なので2013年、本当に最近ですね。自分でも意外だったんだけど、「プロフィールにも書いて、ちゃんと役者やろう!」って思った時だったんです。

私はそんなに混じりっけのあることをやってるつもりはなかったので、「歌手なんだから歌の話で良い、芝居やってたら芝居の話で良い」と。それが普通で、一直線に伝わって欲しいと思っていた。でも「やっぱり芝居もやってるからこうだよね」とか、両方を混ぜて言われるのが嫌で、「もしかして芝居の舞台で歌っているのがいけないのかな」と思って、“エドワード二世”の時には、「歌わない芝居をやらないことには、恥ずかしくて役者とか言えないから、歌わない芝居をやらせて」ってお願いして、ストレートプレイをやったんです。

でもそのストレートプレイをやった時にも、歌ってないのに、すごく緻密に作ったつもりだったのに、やっぱりそれまでと同じように「感覚派だね」みたいなことを言われて、その時に「もうジタバタするのはやめよう」と思った。良い意味で諦めがついた。「わかった、これが私なんだ」と自分を認めたの。「そういうふうに映る人間なんだな。思っているようには見られないんだな。でもそれは別に良いじゃん」って。

志田

自分の見られ方を受け入れたわけですね。

中村

あと「もしかしてこういうふうに考えたら悩まずにできるんじゃないかな」と考えた過程がいくつかあって。「こういう方程式なら、私は歌手としても役者としてもバランスとれるかな」と思ったことがあるんです。

それはどんな方程式かっていうと、まずステージに立っている私は全然良いんですけど、曲を書いたりインタビューを受けたりしてる私は素だから、ほんとにいまだに自信がないんです。自分が精神と肉体のバランスがとれてないことも、どうしても引け目を感じているし、そういうふうに思っていることもばれたくないとか。デビュー直後も今も常にそうで、そういうものって拭えないんだけど、でもそこからやはり解き放たれたくてやっている、活動していると思ってる。あるいは活動している間は考えなくていいって思っているのかも知れない。

私はそこの解き放たれるルートは、二つあると思うんです。一つは例えば「今の自分から本当の自分になりたい」「今の私は偽物の私で、きっと本物の私がいるはずだ」って考えるロジック。それともう一つ、「今の自分が嫌だから別の自分になりたい」「今の自分じゃない別の自分がいるのかも知れない」ってロジックがあって。行き着くところは一緒でも辿り方が違うじゃないですか。そういう本当と嘘みたいな考え方はどんな人にでもあると思うんだけど、私はちょっとそれが強いのかな。

歌を書くって行為はノンフィクションを書いているわけじゃないから、全部が全部自分のことじゃないけど、私の思いを書いてる。これは本当の自分はこうなんじゃないかっていう行為に似てたんですよね。自分の本当の思いを訴えて表現する。

で、芝居はいつも「こんな自分は嫌だ、別に自分になりたいって思ってたじゃん」みたいな、この別のものを借りて表現するってことになってたなって気がついたんです。

そうしたら「二足のわらじはありえないよ」って言ってきた人とかにも「あなたはいろいろ考え方さっぱりされているかも知れないですけど、私はどうしてもそういうふうに悩むタイプなんで、むしろ両方あったほうが精神的にも良いから」って言えるなって。

それに私、うまくいっているのか、うまくいっていないのか分からないけど、「やりたいと思ったことは全部やりたい」って思ってるから、両方やるのが向いてるなって。

それで2013年以降、やっと自覚を持ってやれるようになったんです。恥ずかしい言い方ですけど、私はずっと「取り柄がない、取り柄がない」って思っていて……。

志田

それはいつ頃までですか?

中村

今でもです。どうしても「私なんかがステージに立つの?」っていう思いがあるんです。精神と肉体のバランスとか、性別のコンプレックスとかもあったから、「そんな人がステージに立ってて良いのか」っていうことを常に思っていました。

でもそういう人間が、ステージに立たせてもらっているのなら、超カッコ良くなきゃいけないなとかって。例えば自分と似た様な境遇の人が見て、「あの人あんなにカッコ良いんだから、うちらも大丈夫じゃん」って思えるぐらいの人間力というか、エンターテイナーじゃなきゃいけないなと、つい最近、思うようになったんです。それが自覚を持つっていうこと。

志田

それにしてはずっとハードなスケジュールを縫ってやってきていますよね。役作りとかセリフを覚えたりするのだって、精神的な回路の切り替えもしょっちゅう必要だと思うので、以前から両方やりたいという気持ちを強く持って、音楽と演劇を並行してやっていたのだと思い込んでいました。でも今のお話をうかがって、内面的に揺れながら、それをずっと続けていたというのは、すごく大変だったんじゃないかと驚きました。

中村

精神面は最初の7、8年くらいはきつかったですね。でも楽しもうとはしてるし。

すごい初心者みたいなこと言いますけど、初めて聞いたシタールに感動、みたいなこととか。あと例えば芝居でイギリスの話とかすると、セリフの中にアメリカの音楽を揶揄する言葉が出て来たりとか、でもそこに音が鳴っていたり、子守唄がイギリスの昔の歌だったりとか、そういうことがあって、やっぱり「灰色の空なんだな、こういう音楽ができるな」とか。勉強っていうか、インプットになるので、そういうのを実践でいけるというのが楽しいので、そこはよかったですね。

他にもすごい純粋な、この人とアルバム作ったとか、初めてこの楽器使ってみたっていう楽しさ。こういう演出家とやってみた。こんな舞台装飾を見て、こういうのに合うアルバムを作りたいとか。一応活動の柱には、子どもの頃に初めて音楽作ってみたいと思った時に楽しかったことがあるので、そこでリフレッシュしてたんだと思います。

志田

とはいえ、自分のコントロールは大変だと思います。音楽と演劇でクロスするタイトなスケジュールの中で体調も管理しなければならないし。

中村

そこは他の人がどうだとか分からないから、あんまり分からないんです。うちのボス(=ボールドハートの瀬上健氏)もそういうの(=情報)を入れない人なので。他の人と比べない。羨ましいとか、あっちが上、下とか思わない。「おつきさま」って歌にもありますけど、「上には上がいて下には下がいるから、それは比べない」みたいな話をされて。これは私の根もそうなので、私もそう思う。そこに善し悪しはない。ただそこに自分がいるだけ。そこになんか感情がのると、偉そうな態度になったり、逆にさみしくもなったりするから意識しないようにしています。

だから他所のことは分からないし、タイトだなとも思わないけど、さっき言ったような自覚は持ってなかった。最近まではけっこう考えないでやっていたんだなと思いますね。歌手でデビューして役者もやるようになって、とにかくこの10年は自分のやりたいことを全部やるみたいな。

志田

この10年でやりたいことの回路をどんどん広げてきたという実感があるわけですね。

中村

あります、あります。「目的はやりたいからだけで良いじゃん」くらいの感覚だったんですけど、広げている時はもがいているようにも感じてたと思います。でもこの10年で広げることはやったけど、ここからはそれを深くしていかなきゃいけないから。「やりたいからやれば良いじゃん」というところより、自覚を持ってもうちょっと先のところへ行きたい。

10周年とかって言われるのが、そういうきっかけになってくれたのかもしれないですね。

コンセプト・アルバムへのこだわり

夜の時間の経過に沿って曲が並べられた『私を抱いて下さい』、タイトル曲をまん中に据えたシンメトリカルな構成の『世界のみかた』、四季折々の上手くいかない恋愛歌を2曲ずつ収録した『去年も、今年も、来年も、』など、中村 中のアルバムは、いつもしっかりとしたテーマを元に構成されている。

これはたまたまではなく、世界観を軸に作品を組み立てていく彼女の作法の現れなのだ。

志田

音楽活動の中で、アルバム制作については、どんなふうに思っていますか?

中村

役者的とかシアトリカルって言われちゃうのかも知れないけれど、コンセプト・アルバムを作り続けたいと思っています。

志田

コンセプト・アルバムへのこだわりは、どういうところから生まれているんでしょう?

中村

コンセプト・アルバムじゃないと、私が聴きたくないからです (笑)。というか、そうじゃないものは聴いてないから、世の中にはコンセプト・アルバムしかないんじゃないですかって思っているくらいなんですけどね。

私はコンセプト・アルバムって言葉が凄いヴィヴィッドに理解できている世代ではないと思うんです。でも私は良い曲の寄せ集めでアルバムを作るタイプではなくて、まずこういうものが作りたいんだっていうのがあって。

志田

世界観がしっかりあるってことですよね。

中村

そうですね。先に別の曲があったとしても、そこからこれじゃないとくっつかないなっていうふうに作ってた。だから目的のある曲集じゃないと、作れないって思っているんです。

この間「中村 中のアルバムはコンセプト・アルバムではないんだけれど、こういうテーマを持ってる」って何かに書かれて、その「コンセプト・アルバムじゃないけど」っていうのは、どういう意味なんだろうと思って、お世話になったライターさんに訊いてみたんです。そうしたら「これは本人がコンセプト・アルバムって言っているかどうかもある」って。私は自分を売り出すのが苦手だから、「一応こういうテーマでやったんですけど、みたいに答えるから、そう書かれないんじゃないか」って言われて。だから今は言うようにしてるんです。

コンセプト・アルバムって世界観があって、全体のストーリーがあって、作るものじゃないですか。だったら私はコンセプト・アルバムしか作ってないつもりって感じなんです。

志田

そうじゃないタイプのミュージシャンというのも確かにいますよね。世界観ではなくて音の快楽を探り寄せて固まりにするのも、でかい意味で言えばコンセプトだって言い張ることは可能かも知れない。でも世界観というと、もう少し言語的な意味合いが強くなる気がしますよね。

中村

そうですね。だから音を鳴らす前にできてるものがコンセプトなんじゃないかなって思っているから、「演劇的だね」って言われるのかな。最近になって「ほんとだ、演劇的かも」って思いました。

デビュー前後:天の邪鬼の誕生

彼女の表現に接するファンの多くには、クリエイターとしての中村 中と、パフォーマーとしての中村 中は、おそらく不可分なものに映っているのではないだろうか。だが当の本人にとっては、しっかりとした切り替えが必要なのだという。

その謎を探っていくうちに明かされた彼女の話は、誠実で穏やかな語り口であったにも関わらず、話を聞いているこちらが息を飲むほど衝撃的なものだった。

志田

今の中さん自身の活動においての課題とかテーマというと、どんなものになるでしょう?

中村

切り替え。切り替えをしてるかどうか自分でわかること。

志田

前は無自覚だったんですか?

中村

今もすごくうっすら。結果、切り替わってるんですよ。

ただ書いている私とか、役作りとか、作っている私と、やっている私は切り替わっている気がします。それは意識があります。今の私のままでステージに立つなんて絶対にできないですもん。今喋っている私は自信ないし。なんか怖いし恥ずかしいなんて思っちゃうんですよね。

でもデビュー当時はソングライターなんだから曲と自分が一致していて、そのままステージに立っている感じを求められていたような気がして。それもけっこう辛くて。

今はだんだん切り替えてやるようになっているんですけど、やっぱり別の自分になってやらないと。ポジティヴな言い方をすると、別の自分でやった方が良いんじゃないかなって。

志田

デビュー・シングルを21歳の誕生日にリリースしてますよね。あれは中さんの意志ですか、周囲のスタッフの意志だったんですか。

中村

プロデューサーの面白みだったんじゃないでしょうか。

志田

そういう雰囲気だと期待されてるって感じになるのはわかる気がします。自分の意志で選んだのではなく、プロデューサーの意志でそういう演出にしようねってことだと、「これが自分のドキュメントなんだ」と、背負わされる気分にはなるかもしれませんね。。

中村

確かにそんな気がしますね。実際のところ、(素の)自分のまんまじゃ絶対ステージに立てないって思っていたから、そこは当時何も思わなかったです。ただいつも「誕生日にデビューされて」とか言われるのが、なんか居心地悪いような、ただそれだけで何の意味もないのになって思ってました。

でもそこはデビューして共に苦しんでくれたプロデューサーの願掛けというかね、思いだったのかなって思うと、今初めてあったかくなった(笑)。そうですよね、願掛けですよね。そうしたら早く気づいてもっと答えたかったって思いました。周りのことが全然見えてなかったし。反省してばっかり(笑)。

志田

高校を中退してからデビューする道を選んだ時っていうのは、精神的にはどういう状態だったんでしょう?

中村

すっきりしてないです。高校が全然向いてなかったんで、もう辞めるつもりで入って。

志田

「音楽やりたいから辞めます」みたいな感じ?

中村

いや、そんなにかっこよくないですよ。音楽はやりたいと思ってたけど、毎日通うとか続かなかったからダメなんですね。かっこいい理由じゃなくてダメ人間だからです。朝起きれないからぐらいの。

志田

今はそういう印象は全然ないんですけど? 自分のコンディションをコントロールするのが凄い巧みな人って印象がありますよ。

中村

まあ今はね。それもステージで100%爆発するため、一番気持ち良くなるために必要なことなんで、楽しいからできちゃうんですけど、その時は分かってなかったですよ。

デビューしたばかりの頃もお酒飲みすぎて声出ないみたいなライヴやってましたから。

歌手デビューの頃って、よくアドヴァイスをくださる人に「こういうイメージを持ちなさい。持った方が良いよ」とか、「どういう箱でやりたいとか考えていた方が良いんだよ」みたいなことを言われたんです。それは多分「目標があった方が伸びるよね」みたいなことだと思うんですけど。私はそういうところがフラットしてるので、のらりくらりと。「別に続けられればいいんで」みたいな。だからデビューがどうこうとかじゃなくて、歌を歌いたいってことしか思ってなかったです。

デビューへの足がかりになるんじゃないか、何か変わるのかなみたいな気持ちでコンテストに出てみたりとかもしましたけど、全然そんなことはありませんでしたね。だからデビューの時のプロデューサーがスカウトしてくれるまでは、ずーっとライヴハウスやストリートで、ピアノとギターでひたすらやってました。

志田

ストリートではカヴァーもやってたんですか?

中村

例えば研ナオコさん、ひたすら歌ってました。とか、歌謡曲全般、あとフォーク。歌謡曲は美空ひばりとかちあきなおみとか歌ったし、フォークだったら(中島)みゆきさんとか(井上)陽水さんとか。そのあたりですかね。

志田

それと自分の曲を、というのは、なかなかに自分の作る曲に対してのハードルを上げているなという気がしますね。陽水さんにしてもみゆきさんにしても曲の練れ方が半端ないじゃないですか、それと自分の曲を並べて聴き劣りしないくらいのものにするというのは、そうとうきちんと曲として練り上げないと。

中村

確かに。でも知らないから。怖いもの知らずだったんじゃないですかね。もちろん偉大な作曲家たちがいますけど、その偉大な作曲家たちは何が偉大かというと、自分の思いを書いているから。

なので、一番良いのは自分の歌だと思っていました。

志田

もちろんそういう気持ちは絶対大事だと思いますけどね。

中村

だからきっと今の方が考えちゃいますね。その時はほんとうに「書きたい、歌いたい」みたいな。それがどうであろうと、駅前で有名な人の歌を歌って、立ち止まってくれた人に、チャンスだから自分の歌を聴かせようっていうふうに思っていましたから。

志田

デビューする時はどんな心境でした?

中村

「私、どうしても人前に出るのか、怖いな」と思ってました。ちょっと自分の中の嫌な気持ちだけど……なんか私のことをバカにしてきた奴らとかを、見返して復讐してやろうって。そういうことができるかもしれないから、これはやろうって自分に言い聞かせないとできないデビューでした。

デビューといえば、そりゃ盛り上がるんですけど、「本当はそういうことやるタイプじゃないから」って、常に自分の中でブレーキがかかっていて。だけど心のどこかで「私はそいつらに、ずっと言い返したかったじゃん」みたいな。だから「ここで引いたら、お前はまた逃げるんだぞ」って思いながらデビューした。

志田

学校生活の歌がいくつかある中で、「戦争を知らない僕らの戦争」とかでは、クラスで孤立無縁な感じの主人公が出てきますけれども、それは自分を重ねる部分があるのでしょうか?

中村

なんか場所を学校にしちゃう癖があって、今思ってることでも、どうしてもその時期に当てはめて書いちゃうんですよね。苦い思いがあるからだろうけど。高校はあんまり行けなかったので、高校よりも小学校中学校の時の記憶の方が濃いです。高校入ってから中退するまでは1年いかないくらいでしたね。

志田

中さんはデビューした年の9月に公式サイトで、性同一障害であるご自分のセクシャリティを公表しています。これはいつ頃から公表しようと思っていたんですか?

中村

本音は言わないでいきたかった。公表しないつもりだったんですけど、私が説得されて、未熟だったし…。

私が聴いてきた音楽は、何が本当で何が嘘かわからないけれど、「もしかしたらこの歌は自分のために作られたんじゃないか?」みたいな不思議な感じ。「家族にも触られたくない、友達にも見られたくないところに触っていいのは歌だけだ」って思っていたから、そういうものをやりたいと思っていたんです。

だから「私が誰だっていいじゃん」って。もちろん声とか姿形はこの人なんだろうけど、その中身は見えなければ見えないほど歌に向いてるって思ってた。だからセクシャリティも言いたくなかったし、言ってなかった。

なんか……良い意味でいうと「そのセクシャリティが良い武器になるよ」っていうことだったんだと思います。でも私が言われてショックだった言葉は、「それを公表しないなら売らない」って言われたことです。

で、やっぱり私は根っから抵抗できないタイプなんだなって。その時は大人になってデビューしてもこういうふうに言われるなんて、小学校でされてたことと同じだなと思いました。今となっては、もう成人もしてるんだから、大人同士として話し合えば良かったのかもしれないと思います。だけどどうしても年下が言うことを聞いてくれない大人たち。年下が真っ当なことをいうと「生意気だ」って言われるあの雰囲気で。私が本当のことを話せる場所はなかったんです。

確かに公表して注目はされたなって思います。CDだって今と比べたら、数字的に言ったらね、その時が一番周りの人が喜ぶ結果は出せた。そのことはもちろん感謝してるし、周りの人が喜んでくれることは嬉しい。でも(当時のスタッフとは)一緒に頑張ったねって握手ができない。

みんななんかさあ、すごい言うじゃない。「感謝でしょ」って。そりゃ感謝なんだけど、なぜ何も言えなくするんだろうっていうような扱いをされて、その頃のことは私、感想も言えないし、正直なところ記憶もないんですよ。

まあ、だから私は曲を書きたいんだけど。そこにある感情は、感謝だけじゃないんですよね。

志田

う~ん、中さんの「見世物小屋から」という歌を思い出してしまいました。いったいどういうことが、周りのスタッフと中さんにとって一番良いことだったのか…。中さんにとっても良いようにという考えがあったからこそ、「感謝でしょ」と言われるのだろうと思いますが、一方で中さんに「利用しやがって」という気持ちが出てくるのも分かります。

中村

そうですね。「人間の心って、会議室で動くものだと思ってるの?」って感じ。ほんとうは人と人として話してやっと打ち解けるとか、少しずつ話して本音が出てくるとか、そういうものじゃないですか。

だけど当時の会議室では自分の主張とかセクシャリティの説明とかできる人間が私しかいなくて…、もし私がマネージャーだったらって思うんですよね。私はいくらでも悪者になっていいから、「君たちまずその話し方がいけないね」って言ってあげたい。「どうせ子どもが言ってるんだって思ってるんだね。態度に出てるよ、そんな座り方して、君達も今までに嫌な思いをしたことはなかったのかい?」って問いたい。

「私のことを人間として扱わないなら、私もあなたのことを「人間として扱いませんよ」って言いたくなるような思いをしてました。でもこれはそれを感じた私が言っているから、なんかもう説得力持たないんですよね。自分のことだったらいくらでも言えちゃうとか思われるだろうし。だからもうそういうの放棄して、じっと黙ってるしかなかったんですよ。

やっぱり私ステージの上では、そのままの私でなんかいられないもの。壊れちゃう。

「見世物小屋から」という歌も「観て、この板についた作り笑い、でも舞台の上だとそれできるの」みたいな。「もうそれでいくんだ、どう思ってもいい、私のこと。ほんとの私なんか見せないからね。でもほんとの私なんか関係ないと思う瞬間までは連れて行くから」って感じなんですよね。

天の邪鬼ってそういうものだと思うの。エンターテイナーとはこういうもののことなんじゃないか。黒だと思ったら白、でも白かと思ったら黒だ。予想はつかない。だけど気持ち良いところまで連れて言ってくれる。それが天使なのか、あるいは鬼なのか。地獄にいる天使なのか、天にいる邪鬼なのかわからないけど、じゃあこいつが男なのか女なのかなんてことも、もう忘れさせてやる。それにならなきゃ私は100%の表現はできないと思って。

だからもうほんとに、全部嘘でもほんとでもどっちでもいいですっていう態度をしていこうって。それが最近なんですよ。

この10年悩んだことがやっと今さっぱり思えるようになったきっかけには、当時の判断もプラスになっているだろうし。とか言っている今の私も、嘘かもしれないけれど。まぁ、全部覚えているよって感じですかね。

「記憶がない」という一方で、「全部覚えている」という発言は、一見矛盾した語り口のように映る。だが重要なのは、表面的な言葉のつじつま合わせではない。そうした真逆の言葉を選ばざるを得ないほど、心を激しく揺れ動かしてきた中村 中が、そこから何を糧にして、アーティストとして成長してきたのか、という点こそが重要だ。現在の中村 中の活動と表現の充実にいたるポイントは、むしろそこにあると言っても良いだろう。

盛り上がりの中の孤独、逆境の中の希望

『天までとどけ』
『私を抱いて下さい』

2006年9月11日、公式サイトで自分のセクシャリティを公表した彼女は、翌月10日にはドラマ“私が私であるために”に性同一性障害の役柄で出演し、2007年1月1日にファースト『天までとどけ』でアルバム・デビュー。さらに年末の12月5日にはセカンド・アルバム『私を抱いて下さい』とリリースも順調で、大晦日には“第58回NHK紅白歌合戦”への出演も決定し、12月29日には『天までとどけ』の紅白歌合戦出場記念盤を発売と、見事に注目を集め、2008年の2月から10月にかけては、バンド編成での大規模なツアーを行なっている。

多くの人の目には、この時期の彼女は順風満帆の時の人のように映ったかも知れないが、彼女の内面は深刻な危機に瀕していた。

とはいえ、この危機の最中に、変化のきっかけも生まれていた。新たなスタッフとの出会いを機に、彼女の環境は大きく変化し始める。

志田

先ほどの話でおうかがいした中さんの苦闘は、あまりにも衝撃的で、安っぽい気休めはとても言えないのですが、中さんはそのヘヴィな経験からすごくプラスになること、ポジティヴなことになる要素として得たことがあると思います。

それは現在のスタッフ・ワーク。今は中さんのそういう苦労を知った上で、信頼関係を築いているように思います。

中村

うちのボスは、もうものすごく頼りにしているプロデューサーです。

志田

スタッフ・ワークのやり方がガラッと変わったのはいつだったんですか?

中村

2008年だったと思います。ちょっと暴露話みたいだけど、ほんとにきつくて、ライヴのタイトルを決めてないライヴがあるんですよ。それこそいつもこういうコンセプト・アルバムが好きなタイプだから、ライヴにも毎回コンセプトを持って副題にそれがわかるように付けてきました。それなのに2008年のライヴは、多分“中村 中LIVE2008”ってなってると思う。

その時は鬱だったと思うんですけど、せめてもの抵抗だったんですよね。やりたくないって。プロとしてはほんとにいけないことをしたと思うんですけれども、涙が止まらなくて楽屋から出れなかったりすることがほんとに多かった時期で、だから「早くライヴのタイトルを決めて」って言われたけど、タイトルを付けられなかった。しかもそれがほんとに運悪く一番公演数が多いツアーだったんです。

志田

2007年の年末に紅白歌合戦への出演もあって、周りは盛り上がっている。でも内面的には心が折れてっていうギャップが一番激しかった時期ですね。

中村

ほんとに失礼なことをしてしまったなって思ってるんで、「見にきてくれた方に申し訳ないです」って書いて欲しいです。

簡単にいうときつくって、「私、学生の頃からずっとこんな感じなんだな」って。何度も死のうと思って。でもなんか…リスカとかしても痛いしっていうことで、度胸はないわけ。でもほんときつくてどうしようって、助けてほしいってアピールでそういうことしたりして。気持ち悪いって見られてるなってことは分かってて。で、マネージャーさんもどんどん変わって、それは私もわがままだし…。

志田

それだけ精神的に不安定だったら、確かにスタッフからしたら扱いにくかったというのはありそうですね。

中村

本当に…「やりたくないんです、あなたとは」っていう、せめてもの抵抗。でも実はそのライヴに、ライヴ制作の担当として入ってきてくれたのが、今のうちのボスだった。で、ライヴで歌ってて、なんか感想を言ってくれたの。ちょっとだけ喋ったら、ものすごい、なんていうのかしら、私にとってはまともな返事が返ってきて。要はそれっぽいこと言わない。ちゃんと聞いたら答えてくれる。

で、しばらくその時のマネージャーじゃなくて、なぜかライヴ制作なのに、現場まで来てくれるようになって。新しい人だったし、話した感じだと悪い人じゃなさそうだったから…それまでの人は全員悪い人に見えたんですよ。なんか自分のことしか考えてないなって。でも今のボスはそうじゃなかった。

鬱とか言いたくないんだけど、あるラジオ番組に出る時に、落ち込んでてずっと家から出れなかったんです。ボスは「今日はもうダメかな」って思ってたらしいんですけど、なんか行く気になって出てきてってこともありました。ただラジオ出演は大変だった。泣いて何も喋れない。パーソナリティはトムセン陽子さんだったんですけど、本当謝りたくて。

ライヴのリハーサル中にも目をつぶって眠ったまま、「今日はどうだった」とか、何も言ってくれないディレクターとか。ライヴ中も打ち上げしてるのに、バンド・メンバーといっしょにキャバクラだかどこかへ行っちゃったりして。私の被害妄想もあるかもしれないけど、「これって私がセクシャリティで悩んでいることに対する無意識のイジメじゃないのか?」って感じた。そういうことができちゃう人を入れてる事務所とは離れたいじゃないですか。それから苦労して事務所を離れて、新しい事務所でやるようになったんです。

当時はほんとに話をしてくれるってだけで救いの神様だったんですよ。あと凄いシンプルなことなんだけど、ボスは音楽好きだし。アルバム作りとかでも「こういうものをやろうよ、ここは足りないんじゃない」って一緒に話してくれる。「やっとこういう人がいた!」みたいな感じでした。

旅立ち、そして躍進

『あしたは晴れますように』

2009年2月25日にリリースされたサード・アルバム『あしたは晴れますように』は、中村 中の環境が大きく変わる最中に制作された作品だった。アルバムのブックレットには、新旧両方の事務所がクレジットされている。

前半四曲のアレンジは、Dr.StrangeLoveの根岸孝旨が担当。根岸はこれ以降の中村 中の音楽制作やライヴで、重要な役割を果たしていくことになるミュージシャンで、『あしたは晴れますように』のレコーディングが、その関わりの出発点となった。

アルバムのテーマは「旅立ち」。新しい環境で健やかな創作活動に取り組みたいという願いを込めた設定であった。

これを経て2010年9月22日にリリースしたヤマハミュージックコミュニケーションズへの移籍作『少年少女』と、2011年5月11日リリースのセルフ・カヴァー集『二番煎じ』は、根岸がサウンド・プロデュースを担当し、チームとしての深みを増していく。

そして2012年4月18日リリースの『聞こえる』では、新たに笹路正徳をプロデューサーに起用。新たな環境を得た中村 中は、作品ごとに音楽的な引き出しも飛躍的に広げていった。

志田

『あしたは晴れますように』のレコーディングでは、アレンジャーとして根岸さんが参加していますね。

中村

あそこはちょうど一番変化する難しい時で、アルバム制作的にちゃんと変わったのは『少年少女』以降だと思うんです。(根岸さんとやりたいとか)私の意志はちょっとはありましたけれど、そのアルバムを作った時のディレクターはけっこう面白い人だったんで、その人とボスと三人で作った感じですね。

根岸さんとはこの時が初めてで、次の『少年少女』からガチッと作るようになったけど、この時はいろいろな人とやってしまったから薄いんですよね。でも確かに根岸さんが一番濃かった。

例えば「ちぎれ雲」と「台風警報」って、タイトルは二つになっているんですけれども、演奏は繋がっていて、そういうふうにやりたかったことを、感覚で知ってるわけですよ。「何これ?」とか言わないで、感覚で通じてしまう。私は喋り出すと分からないこといっぱいあるから、「あの感じ?」って言われると「この感じなんですけど」ってぶつかったりしがちなんだけど、感覚的に理解してくれてた。

演奏の部分でもすごく私を吸い出してくれて「キーボーディストはいらない、君で良い」とか、「君、ドラム叩けるなら叩け」って言ってくれた。だから「台風警報」と「さよならは言わないで」では、ツイン・ドラムで入ったりしているんです。

当時の私はやるしかないとなってオラー!っていくことはあっても、普段は「私なんて……」ってタイプだったんだけど、根岸さんは「早く自分の殻から出てこい、やれるものをやりなさい」って言ってくれてたんだなと。そう思うと確かに一番プロデューサーに向いてる。子どもの言うことに耳を貸さない“大人プロデュース”じゃないって感じの人なんだなって。

志田

この時のアルバムのテーマが「旅立ち」ですね。

中村

そうです。ほんとに(事務所を)辞めたくて仕方なくて。このアルバムを出して辞めたんですね。とにかく「あしたは、これ以降は晴れてくれないかな」っていう思いが。「これ以降は楽になりたいよ」っていう願いでタイトルをつけました。

『少年少女』
志田

その次の『少年少女』のリリース当時は、いつになく「自信作です!」って言ってましたよね。

中村

恥ずかしい、ふりふり(笑)。

でもそれは今までの経緯を話すと、やっぱり解放されたと思っているし、なんかあとコンセプト・アルバムだってことと、こういう作り方をしていこうと思えたことかな。

その前の三枚よりは自信はありましたね。みんなで同じ方向を見て作ったから。だから私だけの自信じゃなくて、「いろんな人いるけど、同じ方向を向いてチームとしてアルバムを作るってこういうことだよな」っていうことの自信だと思います。

志田

それはそこまでの流れからしたら、すごい素晴らしいことですね。

中村

そうですね。

『二番煎じ』
『若気の至り』
志田

2011年はセルフ・カヴァー集『二番煎じ』とベスト盤『若気の至り』の2枚を、5月11日に同時リリース。根岸さんとの共同作業で『二番煎じ』を作っているのは、ここまでのいきさつを考えると非常に分かりやすいですが、2011年の5月って、タイミングとしては東日本大震災の二ヶ月後ですよね。

中村

レコーディング中に地震があって、大変でしたね。あれは原発事故もあったし日本中が大変だったから…ちょっと感想は言えないですね。私、自分の商売もしなきゃいけないけど、その時は『二番煎じ』の最後の「手紙を書いてよ」っていう曲なんかもう……それって「もしあなたがきつかったらこっちに吐き出してね、言ってね」っていう曲なんですけど、それに希望を見出すしかなかったかな。

自分のベスト盤としてどうとか、何にもなかった。実感としてそれどころじゃなかったから。

志田

そうですよね。中さんは商売っておっしゃいましたが、仕事とかビジネスにしても日常があるから成り立つわけで、国ぐるみの秩序も「二、三ヶ月後にはどうなっているのかのか分からないんですけど」とか、「半年後に東京に人は住んでいるんでしょうか?」くらいの、そういう状態でしたものね。

そういう非常時ですから、仕事とかじゃなくて、その時でないと言えない本音というか、それが今言ったところとかに出てるんじゃないかなと思います。

中村

そうですよね。何が起こるか分からない時で、ほんとにショックを受けていて、夢中でした。ベストなんかじゃなくて、もう一回「家出少女」を歌いたいくらいで。でも自分の意志だけはこらえてないとみたいな、そういうモードでしたね。根岸さんもきつい時に一緒にいてくれたなって記憶があります。

『聞こえる』
志田

その次の『聞こえる』は、笹路正徳さんのプロデュースですね。笹路さん起用のいきさつは?

中村

ボスの紹介です。笹路さんのマネージャーの方がいらっしゃって、その人とボスがハモるっていうか、私も話せるなって思ってたんだけど、多分まずそこが知り合ったところから、私が笹路さんといっしょにやるのも良いんじゃないかって話になっていったんですよ。

私はそれまで歌詞とメロディとコード進行を主に自分で作っていたけど、サウンドを意識した曲作りはしていないので、サウンドのことはわからない部分も多い。なのでそこをどういう人とやるとって考えたんじゃないですかね。

志田

「闇のまん中」では珍しくプログラミングを使っていますが、そうしたアイデアは中さんではないんですか?

中村

あれはそうですね。言われるとイメージあったんじゃないか、みたいな感じだけど。デモ音源の段階でどういうふうにしたら良いか分かるって、いつも言われるんです。だから最近はなるべく弾き語りでデモを出すようにしてるんですけど、「闇のまん中」はピアノで出していて、でも四つ打ちのイメージがあったので、「どんなのやりたい?」って聞かれたから、すごいざっくりですけど「四つ打ちでピコピコいっているようなやつをやってみたい」っていうふうにお願いしました。今思うとけっこうかっこいいのやったなって思ってます(笑)。

あのアルバムの中で、私はなんか例えばエネルギーに頼らなくなったら、世界が真っ暗闇になると仮定していたんです。今は知ってますよ、事故ったら手に負えなくなっちゃうような大きな力じゃなくても、もっと工夫して賄えることを知ってるから、今だったらそうはならないけど、世界中が停電になっちゃうと仮定した時でも、「そこでも頼りになるものはある。もしかして人の声とか音でなんとかなるんじゃないか。それが音楽だったら嬉しいけど」っていうので「闇のまん中」。

一番聴いて欲しい曲だったから、それをやったことがないサウンドでやるのは怖かったですね。すごい真面目に作ったけど、ピコピコいっていてふざけてると思われた嫌だなとも思ったし。だから今は「これがアレンジっていうんだ」って思えるけど、やっぱりやった時は凄く緊張しながら作っていきました。

セルフ・プロデュースで完成させた『世界のみかた』

『世界のみかた』

2014年9月3日、テイチクエンタテインメントへの移籍第一弾となった通算6枚目のオリジナル・アルバム『世界のみかた』は、中村 中初のセルフ・プロデュース作として届けられた。

レコーディング作品におけるプロデューサーは、演劇における演出家と同様に、作品の質感に決定的な影響を与える存在だ。ここにいたるまでの彼女は、根岸孝旨、笹路正徳といったベテラン・ミュージシャンとの共同作業を通じて、プログレッシヴ・ロック、ファンク、さらにはプログラミングを使ったダンス・ミュージックにアプローチして、音楽性を広げてきた。

こうしたいきさつからすれば、これまで培ってきた経験を糧に、いよいよセルフ・プロデュースで自分の手腕をふるうのも自然なことのように映るが、実は本作の制作は、最初は笹路のプロデュースを予定していたが、途中で意見が対立したため、急遽セルフ・プロデュースとなったものであった。

志田

アルバム制作でサウンド・プロデューサーがいるというのは、音作りについての責任者がいるようなものじゃないですか。でも『世界のみかた』はセルフ・プロデュース。これはこれで勇気が必要だったのではないですか?

中村

そうですね。自分でやることに私は弱気ですから。

でもこの時は作っている途中で笹路さんと揉めちゃって(笑)、「もういいや、自分でやる!」ってなってました。私の原動力って苛立ちとか怒りっていうのが大きいんだなって思うんですけど、後になってみると「なんでできたんだろう? よくできたな」って。

志田

はじめからやってみようと思っていたわけではなく、なりゆきで乗り切ったと。でもこのアルバムは歌だけでなく、「白夜」の音とかサウンド面の迫力も凄いですよね。

中村

やった!(笑) 「白夜」ね、私はキング・クリムゾンとかのプログレも好きなんで、「白夜」の間奏とか凄い好きです。「よし作ったぞ、このフレーズ!」とか思って。

これは全部私の書き譜なんです。別に変拍子とか使ってないけど、ちょっとメタル風な、でもプログレのアカデミックな感じもやりながら乱暴な感じって、良いところを狙えたのかなって思ってます。そのアカデミックさと乱暴さのあんばいはめっちゃ意識して作りました。

志田

真壁陽平(ギター)、TABOKUN(ベース)、かどしゅんたろう(ドラムス)というプレイヤーは、あえて若い人を起用したんですよね。

中村

そうですね、そこも意識しました。「白夜」でいう緊急事態な感じとか。あるいは「車なきゃもてない」とか、「上を向いて歩こう」とかは昔の話で、今はそればかりやってると、高く飛びすぎて墜落して死んじゃうから、「もう昔の話なんだ」っていうのを、若い世代から上の世代の人に聞いてもらいたいと思ったから、ミュージシャンも若くしたかった。「上の世代が作った理想の見方を変えてみませんか」みたいなこと言いたかったから、どうしても若い人じゃないといけなかった。

そこで笹路さんは「とは言え、演奏力が」って言ったんですけど、私は演奏力要らないんですよね。演奏力じゃなくて必然性と勢い。そこはもしかしたら演劇の世界で学んだことかもしれないんですけど、器用な人を呼ぶんじゃなくて、これしかできないって人の使い方でものすごい威力を、それこそ演奏をしてくれる人っていて、ドラムのかどしゅんたろう君なんて、めちゃうまいんだけど、とにかくまっすぐで、その音が欲しかったし。ギターの(真壁)陽平君は謙遜で「バラードは苦手」とか言うんだけど、凄い良いし、とにかく歳が近い人たちでやることに意味を感じてて。

でもその時は私が笹路さんを説得できなかったのかな。「テクじゃない、違うんだよ、フュージョンとかの上手さが欲しいわけじゃないんだよ」ってぶつかっちゃった(笑)。

志田

でもそれはクリエイティヴなフィールドでの、凄く意味のある価値観の戦いじゃないですか?

中村

だからまさに『世界のみかた』で思い悩んでいたことが、笹路さんとも悩めて、「そろそろ見方変えない?」って。それが全部できちゃった。

笹路さんとは、その後、久々にTVの歌の仕事でアレンジで良い仕事できてるんで。

志田

ということは『世界のみかた』をちゃんと評価してくれたということなんでしょうか? そこまでは訊いていない?

中村

訊いていないです(笑)。そこはなんか…お互いに意地があると思う。でもやっぱりミュージシャンなんだから、言葉はダメね。私がそういう性格なのかもしれないけど、音出す前に言葉でやり取りすると、大体ぶつかっちゃいます。

「このアルバム良かったですよね、白くて」「いやいや、僕ね黒いところが良かったと思うんだよ」って、別にどっちでも良いのに、言葉でやってると、なんか私も「白いって言えよ!」、向こうも「黒いって言えよ‼︎」ってなっちゃう。

志田

でも、結果そのあとに一緒に作業できてます、と。

中村

そうっすね。TV出演で美空ひばりさんの「ひばりの佐渡情話」という歌を歌う時のアレンジで。大丈夫でした。

志田

ということは制作途中の衝突も、タブーではない?

中村

ええ、結果論なんですけど良い思い出だなって。

「届いて欲しい」という願いを込めて

『去年も、今年も、来年も、』

2015年11月18日リリースの『去年も、今年も、来年も、』は、プロデューサーにLITTLE CREATURESの鈴木正人を起用し、アコースティックな響きを活かした音作りで、「四季折々のラヴ・ソング」というコンセプトで制作された。これに先がけて6月24日には3曲入りのシングル「ここにいるよ」も発表しているが、実はこの時期の彼女にとって、もっとも大切な楽曲はそのカップリング・ナンバーとして発表した「死ぬなよ、友よ」だったという。

こうしたエピソードには、作品を通じて切実なコミュニケーションの可能性に賭ける彼女の表現の本質が現れている。

志田

『去年も、今年も、来年も、』の「四季折々のラヴ・ソング」というコンセプトは、どういういきさつで生まれたのでしょうか?

中村

実はこれは苦労したアルバムだったんですよ。『世界のみかた』からレコード会社が変わって、ディレクターも変わって。ある意味初めて「こういうのが良いんだけど、こういうのを作って」と言われたかもしれない。前から「もっと関わってよ」って思っていたので、そういう意見は欲しかったけど、実際にそういう意見をもらうことも初めてだったし、ある意味それが悩みの種でもあった。

ディレクターから「中ちゃんのパンキッシュな部分が苦手だった。ソフトな感じのものをやりたい」って言われて。そう言われちゃうのは、自分も反省点はあったので。

私は、『世界のみかた』で完全にやりきったつもりだったんだけど、もっと結果出してもらわないとってことだったんだろうね。改めてけっこう真剣な会議になって、価格をいくらにするとか、曲数を減らさないかとか。そうやって売る手法もあるんだよって。私はポジティヴな話し合いだと思っているので、そうしてみようかなと。で「じゃあ7曲で、ソフトタッチなもの」と言われて、実際は8曲になってるんですけど、ちょっと自分のアルバムなのに楽曲提供の仕事みたいだった。

その時にディレクターさんに「こういう曲が好きだよ」って並べられたのがラヴ・ソングだった。私はラヴ・ソングとか似合わないと思ってたんです。だってラヴって私にとって苦悩だから。でも苦悩だって認識できたから、苦しいものを外に吐き出すっていう音楽の作り方が、それなのかなということで、やってみようと思ったんですね。

ただそこになんか意味がないとなと思って、「私にとってのラヴは苦悩だ、それはいつもある」っていうのが自分哲学なので、その「常に」っていうのを、春夏秋冬2曲ずつでやってみようかって。そのまま7曲だと入れられないから8曲にしたんです。

でもけっこうその作り方は難しかった。あと私がその時一番歌いたかったのは、そのアルバムに入ってなくて、シングルの方でカップリングに入れた「死ぬなよ、友よ」っていう曲だったんです。

この曲は小学生の時に一番遊んでくれた友達のことを考えて書いた曲なんです。その友達は自殺未遂をして、未遂だったので生きてるんですけど、なんか連絡先も分からなくなっちゃってるし、そこで30にもなって昔の一番お世話になった仲良かったやつの連絡先も知らないような自分の生き方を、そういうのを初めて後悔したのかな。そういう人にそういう思いをさせないために歌って来たんじゃなかったのかと。

きつかった自分の誰にも触られたくないところを触ってくれる音楽というふうに思って、作ってきたんじゃなかったのか? 実生活も音楽も全然できてないんだな。私にとってそいつに届いてなかったんだっていうのがあって、「なんだよ!」みたいな。まあ悔しかったし、「どんな手を使ってでも一報くれれば良かったのに、届いてくれたらいいな」と思って書いた曲が「死ぬなよ、友よ」だったんですよ。

ちょうど四季、春夏秋冬のアルバム作っていたので、その季節というテーマともちゃんと結びつくように、どこの季節においても通用する誕生日の歌にしようと思って、けっこう悩みながら作りました。

ライヴ・パフォーマーとしての発展

2016年はミュージシャンとしての中村 中にとって、これまでにない経験をする年となった。デビュー以来、一貫してシンガー・ソングライターとしてソロ名義の活動を行なってきた彼女が、DIR EN GREYのDieとMOON CHILDの樫山圭を中心としたユニットとして2015年7月から始動していたDECAYSの東名阪ツアー“TOUR2016 PINK=FLORID”のステージに、ギター&ヴォーカルで参加したのだ。

普段のライヴとは違って、ここでの彼女はヴィジュアル系テイストのきらびやかなステージの一員。華やかなコスチュームに身を包み、エレキ・ギターを弾きまくっていたが、その存在感には確固たるものがあり、その後も8月のワンマン・ライヴ“Elimination Refuse Ornamental Show”に参加。12月7日にはファースト・アルバム『Baby who wanders』をリリースし、2016年末から2017年初頭にかけては再びツアーも行なっている。

彼女本来のライヴ活動は、これと並行して2016年夏に“TOUR2016 十の指”と題して、ドラムスに平里修一、ベースに石田純を擁するトリオ編成でツアーを展開。さらに2017年3月には“TOUR2017 十の指ふたたび”というタイトルで、石田匠をゲストに迎えた二人でのツアーを展開する予定だ。

これらのステージに関する彼女の発言からは、新たな体験を積むごとに、それを糧としてライヴ・パフォーマーとしての自分を研ぎ澄ませ、発展させていく姿勢が伝わってくる。

志田

DECAYSに参加するいきさつを教えてください。

中村

きっかけはデビューの時のプロデューサーから連絡があったんです。その人が「今、DIR EN GREYのDieとMOON CHILDの樫山圭がやっているロック・バンドがあるんだけど、ヴォーカルを探している。俺は中を推したい。理由は退廃的なロックをお前で見たいんだ。そしてそれが似合うと思う」って。

「ロック・バンドをやっている中ちゃんを見たい」とは、ボスからもよく言われていたんですよ。ただ、自分のバンドやってる人たちの別のプロジェクトっていうのが、どういうものなのか分からなかったから、会う機会を作ってもらって、一時間ぐらい話した。

その時は「自由にやりたい」って言葉が印象に残ったんです。ある意味、自分のバンドにすごい縛られてるのかな。だから本当の叫びなのかも知れない、そういうことだったらけっこう濃い「自由になりたい」なんだなと思って。そこから私がお世話になってる二人のプロデューサーからめちゃ口説かれて。

どうやらはじめは凄いライトなものやりたかったらしいんですよ。だけど私は様式美のあるバンド好きだし、そういうものだと勝手に想像して「それだったらできるかな。とてつもなくエネルギー出せればいいんでしょ!」と。なんかおっきい音出したいみたいな。そういう欲、そういう快楽は私にもあるから、じゃあやってみるかと。

バンドのリハーサルやった時は、まず楽譜がない、耳コピみたいな感じだったんです。私は楽譜ないと耳コピできないから、コード進行だけでもせめてと思ったんだけど、Dieちゃんがどう弾いてるのって目で見て、小学校の時にピアノ弾いてる先生の指見て覚えたのと同じ感覚でやりました。

リハーサルで音出してみたら、ほんとに楽しそうで。私も丸々ジャズマスター持ってマーシャルで歪ませて鳴らしてみたいな、あの爆音の中が心地よかったんですよね。変な言い方だけど静寂を感じるっていうか、音を出す快楽。そこにちょっと魅せられた部分もあった。

ステージでも自分じゃないものになれたし、ひょっとしたら中村 中の活動よりも、本当になりたいもの、中村 中の文字はくっついてますけど、これはもう全然違うものなんだっていうのを体感できたのはDECAYSだったかも知れない。その時に私今何も考えずに、この歌、こういう人に届いたらいいなとか、何も考えずに歌えてた。奇しくもDECAYSで音そのものになってたかも。

そうしたらやっぱり盛り上がって、はじめは4月だけのサポートのつもりだったんですけど…。ただその心地よさは長く続くものではないなと最初のライヴで感じてました。

でもライヴの感覚は、なんて大胆になれてるんだろうって感じたから、これを自分のライヴでもやろうって思えたのかな。本当にいいものだけもらって帰って来たって感じ。そういう活動でした。

私としてはやり尽くして、満足してます。

志田

DECAYSの活動を経たことで“TOUR2016十の指”のステージで、今までと違う発見はありましたか?

中村

分かりますか? それがね、あったんですよ!

この時にもひとつの気付きとひとつの諦めを覚えたんです。まず10thアニバーサリーにたどり着けたことで私は成長できたんだなって思ったんですけど、じゃあ10年目に何がふさわしいか、何か10年ザッと追えるようなものをやろうと。やっぱりアニバーサリーだし、見る方にもそれは伝えたいと思って、タイトルにも10って入れたんです。

私はデビューしたばっかりの時は、ピアノを弾きながら歌うライヴが多かった。そのあとで“阿漕な旅”とかで、ギターを弾くようになったんですね。それは理由があって、私エレピが好きじゃないから生ピアノを使うんですけれど、生ピアノって絶対真っ正面向けないんですよ。そうなると、なんか力不足なんじゃないかと。「ステージを見たら、真ん中にいてほしいやろ、真ん中付近でこっち向いてほしいだろう」と思ってたから、ピアノを弾くのってけっこう見る方にはストレスなんじゃないかなって思って、ピアノから離れていたんです。

でもこの時は10年間の感謝を込めてやろうってことで、久しぶりにピアノを弾いているところもお見せしてみようかと。ただ私としては、あんまり横向きすぎるとパワーが伝わらないんじゃないかと思っていたんです。

でもやってみたら全然違ってた。

真逆で、ひょっとしたら一番盛り上がったんじゃないかって感じるライヴだったんです。本当に私の考えてることって、逆の方向行くんだな。だから考えすぎるのやめようと思いました。それが諦め。

で、気付いたのは、エネルギーっていうのは、どういう出方をしてるのかってこと。もちろん客席に放って客席から帰って来たものを咀嚼してまた出す、こういうエネルギーもあるんですよ。でも私はどこかシアトリカルだって言われる部分はあるから、そこにお客さんからの歓声が上がるってタイプじゃないんですよね。もちろんあがるように「よっしゃここから上げていこう」みたいなふうには導くんですけど、どちらかというと、やっぱりパスをもらうというより、エネルギーを私が出して、それを見てもらうというのがほとんどなんですけど、“十の指”はバンド・メンバーと一番コンタクトが取れたライヴだったんですよ。時々まったく客席を意識できてなくて、ゴメンていうくらい「大丈夫?悪かったかな?」っていうくらいこっち(=ステージ上)で盛り上がったことがあって、ただ客席は客席でステージのエネルギーがそっちに漏れてて盛り上がってるんですよ。

それって確かにDACAYSのあの感覚と似てるんですけど、「こんなふうになるんだ? いいのか! 忘れても」みたいな。我を忘れるぐらいっていうものにやっとたどり着けたのかなっていうツアーでした。

志田

そういう盛り上がり方は、スリー・ピースという編成の特性も大きなポイントかも知れませんね。

中村

そうですね。楽できないとかっていうのもありますよね。全員が同じ熱量で演奏できなきゃいけない。そこに歌もある。だけど夢中でした。夢中になれた!

志田

ただ、それを持続継続するっていうのは、大変ではないですか? 一度だけのツアーだったら短期集中でいけるけど、繰り返すとなぞってしまう部分が出て来やすくなるような気がします。

中村

そうですね。でも“TOUR2017十の指ふたたび”は趣向が違うんです、今度はヴォーカリスト二人で回るってことで、二人だけなんです。『十の指』っていうのが10周年のお祝いと、私がピアノ弾く、10の指を駆使するっていうことにかかってるんで。

志田

なるほど。前のツアーの感触をついなぞりたくなっても、そうはならないように工夫してるんですね。

中村

はい、そこはね(笑)、うまく新鮮さを保つように。

歌でなければ伝えられないこと

10TH ANNIVERSARY SHOW『天晴れ!我は天の邪鬼なり』

10周年のアニーバーサリー企画の締めとなる5月20日の東京国際フォーラム。 そのタイトルは、“10TH ANNIVERSARY SHOW『天晴れ!我は天の邪鬼なり』”と銘打たれている。

今回の取材の中で、彼女は「家族にも触られたくない、友達にも見られたくないところに触っていいのは歌だけだ」という発言をしてきた。それは彼女の歌を聴くひとりひとりにとっても、核心に触れる言葉ではないだろうか。

では、そうした表現を通じての切実なコミュニケーションと天の邪鬼というキーワードは、どのように結びつくのだろう?

志田

ここまでお話をおうかがいしてきて、「死ぬなよ、友よ」で「この人に届いてなかったのか」ということをずっと気にしつつ、みたいな話がありました。一方で10年の中で気付きがあって、そこでは「何が本音なのか、何が自分なのか関係なしにエンターテイメントを成り立たせる」という発言もありました。

そこで今回のインタビューの最後は、中さんの音楽あるいは表現活動が、アートとしての作品として成り立つのと同時にコミュニケーションのツールとして機能する可能性について、どういうふうに考えているのかということを掘り下げていきたいと思います。

中村

コミュニケーションが取れないから…、でも歌とか表現が、私なりのコミュニケーションの取り方なんだろうな。私、嘘ついちゃったことがあるんですよ。私が「多分日常の会話で言えないし、ほんとは言いたかったことも言えないタイプだったから歌にしてるのかなって思う」って話をしたことがあって。その時は「ということは、歌が中村 中にとって人と繋がるツールなんですね」って言われて、「そうですね」って答えたんだけど、その「そうですね」は、「私はそうは思わないけど」っていうのが入ってて。

私にとって歌は逆だったから、バリアだったから、傷つきたくないとかっていう逃げ場だし、バリアだったし。だからけっこう真逆だったんですよ、感覚が。

でも、常に未熟なりに「このバリアはどういうものなのか?」って考えるんです。決して人をはねのけたいんじゃなくて、それ越しじゃないと落ち着いてコミュニケーションが取れないから、いったんそういうものが、壁って言っちゃうとすごい壁のある人間みたいになっちゃうけど、まあ窓みたいなものはあると思う。何か一枚ガラスのようなものを作ってからじゃないとコミュニケーション取れないんだなと思いますね。

そのバリアを今はネガティヴなものだとは思ってないんですけど。「もう怖い嫌な思いはしたくない」っていう気持ちにプレッシャーが働いちゃうから、「近づかないで」っていう部分もないわけではないんだけど、これがあるからビクビクしないで相手と話せるっていうのもあるんだという。

志田

音楽を聴いていて「なんでこれ私のために?」って思うような瞬間が、歌というのはあり得るし、そういうふうにあり得るのだったらありたいとおっしゃっていましたよね。それは通常のコミュニケーションとは少し違って、特殊な、歌だからこそ自分のためだけに届いていると思えるような純粋さ。誰にでも開かれてるコミュニケーションではなくて、「パーソン to パーソン的な深みだからこそ、ここまでくるのだ」みたいな、そういう深みのあるコミュニケーションになる可能性があるんじゃないかなと思うんですよ。

バリアとか窓とか、例え方はいろいろありますけど、きっとコミュニケーションには、直接会ってないと伝えられないこと、逆に電話でないと伝えられないこと、メールでないと伝えられないこと、手紙でないと伝えられないことってありますよね。中さんはおそらくそうしたところで、“歌でないと伝えられないこと”に気がついているからこそ、さっきのような発言になるんじゃないでしょうか。

結局、僕は読者に向けて「中さんの音楽をそういうふうに受け取る人が多いよね? それが中村 中の歌の魅力だよね?」ってことを言いたいわけなんですけど(笑)。

中村

ありがとうございます(笑)。自分じゃ言えないから。

志田

だから自分の音楽が、「なんで自分のことここまでわかってくれるの」っていうふうに届く可能性を、中さんが諦めずにいるかどうかってところですよね。「天の邪鬼だから知らないもんね」って言っちゃうのかどうか、そういうところのあんばいをどんなふうに感じてるのか気になるわけです。

中村

本当のことは言いたくない。

でも私、今も昨日も書いてる曲も、絶対この本人だったら言えなかったけど、私が言ってやるって思って書いてる歌ばっかりです。学校ものが多いって言われたどの曲も、私だけの歌じゃないし。きっと志半ばで「言い返したかったのに」「仕返ししたかったのに」って思ってる、思ってたろうなって、それこそ役作りじゃないけど、その子の気持ちになって考えたら、そりゃ言い返したいよ。でも彼が言い返せなかったことを私が書いてやるとか思ってるし。

私だけじゃなくて、絶対聴いた人で「本当は嬉しかった」も言えない子とか、「本当は怒ってる」と言えない人がもしいたら。

っていうかいるし! それは分かるし。

そういう人が歌を聴いてもらってる間か、ライヴ見てもらっている間くらい、その気持ちが楽になるようなパフォーマンスがしたいって思っているし。

悔しい思いが恥ずかしいと思って生きてる。なんか言い返せなくて「はい」って言っちゃったとか。私もそう思ってないのに「はい」って言っちゃうタイプだし、いまだに。

だけど、そんなのをみんなに知られて「はっきり言えばいいじゃん」って言われるのも恥ずかしい。そんな恥ずかしい思いから、この爆音が鳴ってるっていうのだけでも、昇華されるものがあるんじゃないかと。

そうは思ってますよ。すっごい思ってる!

でもそれをすっごい思ってますって、なんていうのかな、すごい思ってるかどうか、その人がほんとはどう思ってるかを確認しないと、人のこと信用できないのかもしれないけど、私はそれがどうでも救われたかったから、そこにあるエンターテイナーが本当はどういう人かなんて、よく分からないものとしていてもらった方が良いなと思うから、これ(=“10TH ANNIVERSARY SHOW『天晴れ!我は天の邪鬼なり』”)をやりたいんですけどね。

志田

今の話は、中さんがエンターテイナーである部分と、中さんがエンターテイナーを見る目線が錯綜してますよね。

中村

そうですね。書いている私には今話したような思いがあります。でもそれを人前で歌う時は、今のこの作っている思いがある私のままでいったら折れちゃうから、それは自分の身の守り方なのかもしれない。

志田

舞台の上はこういう私になる、みたいな。

中村

そうです。

志田

それによって逆に強いパフォーマンスができる。

中村

そうですね、そうなんですよ!

突かれて痛いところがない、舞台の上ではね。

志田

まさに今回の取材でおうかがいしたい核心に触れることができたように思います。どうもありがとうございました!

グサッと突き刺さってくる歌。

初めて中村 中の歌を聴いた時、僕はそう感じた。それ以来、「なぜこの人の歌はここまでグサッとくるのだろう? 一体、この歌を歌っているのはどんな人なんだろう?」という気持ちを持ちつつ、彼女の作品と表現の場に接してきた。

中村 中は様々な表情を持つ人だ。

例えば“夜会”の舞台で、中島みゆきと並んでいる姿は、それこそ何十年も活動してきたベテランかと見紛うほどの圧倒的な風格を迸らせているにも関わらず、取材中に初期のことを語る時の彼女は、繊細すぎて壊れてしまいそうなティーンエイジャーのようでもある。本稿をご覧くださる方が行間から感じ取っていただけると嬉しいのだけれど、インタヴューの前半では重い表情で沈黙した後、慎重に言葉を選ぶことが多かった彼女は、話題が最近のことになるにつれ、口調も快活に軽やかになっていった。

そんな変化を目の当たりにしながら言葉を交わしていた僕は、インタヴュー本編に費やした時間は、約3時間半ほどだったが、取材が終わった時、もっともっと長い時間をかけた旅に同行させてもらったかのような気持ちになっていた。そして中村 中のこの10年は、“歌に救いを求める者”が、“救いを求める者に向かって歌う者”へと変容していくスタンスを、確かなものにしていくための物語だったのだな、と感じた。ひょっとしたら本人が確信を持ってそれを自覚するのは、もう少しだけ後のことになるのかも知れないが…。

彼女の表現は、すでに世代や時代に足を取られることなく、それを必要とする魂に届く飛距離を獲得しているように思うけれども、このテキストが些かでもそうした現象を加速するきっかけとなることができたら光栄です。

そして最後にヘヴィな質問にもひるむことなく、自分の胸中を掘り下げ、音楽や演劇に臨む時と同じく、全身全霊で応対してくれた中村 中さんと繊細な配慮をもって取材の場を設定してくださったボスこと瀬上健さんに深く感謝します!

取材、構成、テキスト:志田歩 〔2017年1月25日 表参道・キョードー東京にてインタヴュー〕

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